本覚寺の山門を出て、夷堂橋(えびすどうばし)を渡ると、日蓮宗妙本寺の総門が見える。そこから参道を進み、苔むした石段を登っていくと二天門があり、くぐると祖師堂がある。山号は長興山(ちょうこうざん)で妙本寺派本山である。開山は日朗(にちろう)。本尊は三宝祖師(さんぽうそし)。開基は比企能員(ひきよしかず)の末子の比企大学三郎能本(よしもと)で文応元年(1260)の草創、山号の長興は能員、寺号の妙本は能員室の法名にちなむと伝える(『長興山妙本寺縁起』)。
祖師堂
妙本寺のある谷は比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ばれる谷戸である。比企ヶ谷は、曳谷・比器谷とも記され(『本土寺過去帳』等)鎌倉時代の御家人、比企能員一族の邸跡とされている。能員は通称、藤四郎と呼ばれ、源頼朝の乳母、比企尼(ひきのあま)の養子であった。比企尼は伊豆配流中の頼朝を助け、その子、能員も頼朝の信頼が厚かった。寿永元年(1182)、産気づいた政子は、比企ヶ谷の能員邸に輿に乗って渡御し、頼家は能員邸にて生まれている。能員妻らが乳母となるなど、比企氏一族と頼家との関係は非常に深かった。
正治元年(1199)正月に頼朝が死去し、頼家が嗣立すると、頼家も比企氏を重用し、その権力は次第に北条氏を凌ぐほどとなった。こうして北条氏と比企氏は次第に敵対するようになるが、『吾妻鏡』によると、建仁3年(1203)に頼家が重病になり、危篤になると北条時政は関東28箇国の地頭職と日本国総守護職を頼家の子、一幡に、関西38箇国の地頭職を頼家の弟千幡(実朝、頼朝の次男)に譲与することを専決した。これに激怒した能員は一時回復した頼家に北条時政の討伐を訴え、頼家もそれに応じた。しかし、この謀は盗み聞きしていた北条政子によって北条氏側に漏れてしまった。9月2日、北条時政は薬師如来供養の仏事があると、能員を自身の名越邸に誘い、やってきた能員を殺害させた。事件を知った一族は比企ヶ谷に篭ったが、政子の命によって駆けつけた幕府軍に攻められ、一族は滅びた(比企氏の乱、小御所合戦)。この時、一幡も焼け死んだが、彼の着ていた小袖を葬ったとされる「一幡の袖塚」が境内にある。
なお、京都の公家の日記には9月1日に頼家がすでに没したことが報告され、千幡(実朝)の将軍継承が承認されたことなどの記述が見え、『吾妻鏡』の伝える比企氏の乱は北条氏側の視点であることを差し引かねばならない(『猪熊関白記』、『明月記』)。頼家は北条政子により修善寺に追放され、やがて殺害された。あとを継いで将軍職を嗣立したのは北条氏に擁立された実朝であった。妙本寺には一族の墓塔がある。
二天門
妙本寺の創建時期は明確ではないが、比企氏の乱の後、比企ヶ谷には頼家の娘で鎌倉幕府4代将軍九条頼経の夫人、竹御所(たけのごしょ)が住んでいる。竹御所は文暦元年(1234)、連署・北条時房邸で出産したが、死産で、自身もそのために死去した。竹御所の墓も妙本寺内に存在する。比企ヶ谷はそれ以後は無住となったため、妙本寺ができたのは、それ以降であろう。ある説には文永11年(1274)に佐渡配流から帰った日蓮に比企能員の末子、能本が比企ヶ谷の地を日蓮の喜捨してことに始まるとも言われる。能本は比企氏の乱を生き抜き、順徳天皇に近侍していたと言われている(『妙本寺大堂常什回向帳』等)
総門
鎌倉期の妙本寺を知る史料はあまり豊富ではなく、当期の妙本寺の姿はあまり明確ではない。室町・戦国期にいたると文和元年(1352)11月の足利尊氏御教書で「比企谷」に「新釈迦堂」の記述が見える。供僧が補任されていたと同書にあるが「新釈迦堂」と妙本寺の関係は未詳である。「新釈迦堂」は応永22年(1415)にも関東公方足利持氏によって供僧が補任されている(「足利持氏御教書」)。「風土記稿」は文永11年の起立で、これが妙本寺の本堂であると伝える。
また応永22年閏10月13日には、山入与義(やまいりともよし)が足利持氏の不審を蒙り、「比企ヶ谷法花堂」で自害し、家人13人も討ち死するという事件が起きている(『喜連川判鑑』、『神明鏡』)。「法花堂」とは妙本寺のことであろう。山入佐竹家の与義は応永14年に佐竹本家の当主義盛の後継者として上杉憲基の子、義憲を迎えることに不満であり、その排斥運動の中心にいた。上杉禅秀の乱時はこのため、義憲を支援した足利持氏や上杉憲基らに反抗し、禅秀側につき、極楽寺坂において戦っている。禅秀側の敗北で持氏に与義は降っているが、与義はその後も反義憲派として動き、義憲派の弟小山野自義を自害させた。このため、持氏は与義を邸宅に包囲し、比企谷において自害させた。この時、寺は炎上した。古河公方足利政氏の治世下には、政氏によって敷地、寺領を安堵が行われている。
日蓮宗関係の史料によく見られる「比企谷」は地名ではなく妙本寺を指す場合が多い。妙本寺は池上本門寺、千葉平賀の本土寺と並び日朗門流の中心寺院である。特に本門寺とは、住持は初め妙本寺に、ついで本門寺に住すという両山兼帯の関係にあり、昭和22年(1947)に分離するまで続いていた。
現在の伽藍は山門、二天門、祖師堂、本堂、鐘楼などで、またこの他境内には鎌倉史跡碑が二つ(「比企能員邸蹟」、「万葉集研究遺跡」)、比企一族の墓、一幡の袖塚、近年建てられた日蓮祖師像がある。山門横より入る小道の奥、北側の寺域には蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)をまつる蛇苦止堂(じゃくしどう)、蛇苦止の井がある。
江戸時代にはかなりの寺勢を維持し、修造などがよく行われた。総門、二天門は江戸後期の建築である。