歌の橋から金沢街道を進むと、やがて杉本寺に着く。天台宗で、山号は大蔵山(だいぞうざん)。正式には観音院杉本寺と称する。もと宝戒寺の末寺であった。杉本観音(すぎもとかんのん)の名で知られる。坂東三十三所札所(ふだしょ)の第一番。創建は天平6年(734)と伝える。本尊は十一面観音。現在、本堂には三体の十一面観音がある。
本堂
寺伝によれば昔、関東地方を行脚していた行基菩薩が、このあたりを通ったとき、十一面観音が現れ、この地に像を刻んで安置することを命じた。それから後に今度は光明皇后(聖武天皇の皇后)の夢枕に観音が現れ、堂宇を建てて、東国を平定するように命じた。そこで光明皇后はここに本堂を建立したという。杉本寺および杉本観音という名称の由来は、文治5年(1189)、隣家からの火災により堂が燃えたとき、三体の観音像は自ずから杉のもとに避難したという伝説による。また、堂が燃えたとき僧が一人堂の中に走り、観音像を助け出したともいう。この観音は「頼朝観音」及び「下馬観音」といわれ、堂の前を下馬しないで、そのまま乗っていると必ず落馬したという。そこで建長寺の大覚禅師がこの観音像に覆面をすると、落馬することがなくなったので、「覆面観音」ともいうようになったと伝える。
山門と参道
『吾妻鏡』には「大蔵観音堂」(『吾妻鏡』文治5年11月23日条)
という名で登場し、実朝なども参拝している。 現在、境内には山門(仁王門)、本堂、権現堂、墓地などがある。茅葺の本堂は中に入り、2体の十一面観音の他、地蔵菩薩、毘沙門天、三十三応現身像、びんずる様などを間近で拝むことができ、参拝客が絶えない。伝説と信仰に彩られた鎌倉屈指の古刹である。この寺の裏山には杉本城という城があった。三浦義明の長男義宗は「杉本太郎」を名乗っているが、築城は鎌倉時代末期と考えれている。六浦から朝比奈峠を経て鎌倉に入る金沢街道が寺の前を通っていることを考えると、鎌倉防衛のための城であったのだろうか。