江ノ島電鉄の腰越駅から鎌倉方面に戻って線路を渡ると満福寺がある。真言宗で山号は竜護山(りゅうごさん)。本尊は薬師三尊。他に地蔵菩薩像などがある。もと手広青蓮寺の末寺。創建は天平16年(744)、行基の開山と伝える。奈良時代に関東に疫病が流行し、多くの死者が出た時、聖武天皇の命令で行基が関東に下り、ここで薬師三尊を彫って祈祷すると疫病がおさまったということが寺の起こりだという。もともとは「海北山万福寺」と号していたようである。また、満福寺は別に源義経の関わりでも有名である。


満福寺の入口


 義経は義朝の九男で幼名は牛若丸といった。平治の乱で捕らえられて鞍馬寺に入り、後に奥州陸奥の藤原秀衡を頼り、秀衡のもとで育った。治承4年(1180)、兄の頼朝が挙兵すると、頼朝のもとに参上。以後、頼朝の代官として木曽義仲を討ち、一の谷、屋島、壇ノ浦で次々と平氏を破った。しかし、平氏が滅亡すると義経は頼朝と不和になっていく。文治元年(1185)に義経は壇ノ浦で捕らえた平宗盛を連れ、鎌倉に凱旋しようとしたが、この腰越の地で鎌倉入りを拒まれ、北条時政が宗盛を受け取った。義経は満福寺に来て頼朝の怒りを解こうとして、書いたのが有名な「腰越状」であるとされているが、その真偽は定かではない。結局、義経は許されず、ここから京へ引き返した。京で義経は叔父源行家と組んで頼朝打倒の兵を挙げたが失敗し、奥州藤原秀衡のもとに再び身を寄せた。しかし、秀衡の死後、その子泰衡は頼朝の圧迫に恐れをなし、義経を衣川に襲って自害させた。現在の寺観は山門、本堂、鐘楼、地蔵堂などがある。延宝3年(1675)に火災に遭っている。寺には弁慶筆といわれる腰越状の写と伝えるものをはじめ義経関係のものが展示されている。


本堂


撮影日:2011年5月14日
鎌倉市腰越2丁目
(鎌倉郡腰越村)

鐘楼 本堂 本堂 境内
本堂 山門 階段 江ノ電の線路の向こうに。 門前を江ノ電が走る。

位置

参考文献

『鎌倉の寺 小事典』、かまくら春秋社、2001年
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社

2011/06/17 UP
2017/01/04 CSS改修
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