手広交差点より西鎌倉へ向かう県道沿いにあるのは真言宗の青蓮寺である。「鎖大師」の通称で知られ、山号は飯盛山(いいもりざん、はんじょうさん)。正式には仁王院青蓮寺。創建は弘仁十年(819)と伝えられるが、詳細は不明。開山は弘法大師と伝える。中興は善海。江戸時代には関東檀林三十四院の一つになった。
本堂
伝えるところに、むかし弘法大師がこの地で修行をしていたとき、美しい天女が突如現れ、一粒の仏舎利(釈尊の骨)を託して池に姿を消したという。大師は、その骨を五鈷(ごこ:密教法具)に納めて一夜を明かした。すると、朝見てみると美しい蓮が池一面に咲いていたという。弘法大師が修行したのは、現在の青蓮寺の裏山である飯盛山で、天女は江ノ島の弁財天であったという。
青蓮寺の山門
本尊は弘法大師像で、鎌倉末期の作とされる。非常に写実的な裸身像で、爪が水晶で作ってあったり、また鎖仕掛けで足が伸びるようになっていることから俗に「鎖大師」と呼ばれる(『新編鎌倉志』)。弘仁七年(816)、諸国行脚の旅に出る弘法大師は嵯峨天皇との別れを惜しんで自ら鏡に向ってこの像を作り天皇に奉献したという言い伝えがある(参考『かまくら子ども風土記』)。また青蓮寺のことを「鎖大師」と呼ぶのもこのためである。今は本尊になっているが、もともとこの像は鶴岡八幡宮の供僧、等覚院にあったもので、明治の神仏分離令でかろうじて破壊を免れ、青蓮寺にうつされた。他に両界曼荼羅図や観音像がある。かつて支院に宝積院(ほうしゃくいん)、東福院(とうふくいん)があったが、今は廃寺。手広の熊野神社はこの宝積院の管理だったらしい(『新編相模国風土記稿』)。