今小路から扇ガ谷へ向かい英勝寺総門前の踏切(寿福寺踏切)を渡る。そこから北へ向かって少し進み、右に折れて、直進すると左側に浄光明寺がある。山号は泉谷山(せんこくさん)。古義真言宗泉涌寺派である。開山は真阿、開基は北条時頼(5代執権)・北条長時(6代執権)。
創建は建長3年(1251)頃で、開基は北条長時および北条時頼、開山は真阿とされている。北条長時の父は、六波羅探題北方及び連署として執権政治期の得宗家を支えた重時である。長時も六波羅探題北方に在任の後、康元元年(1256)に病気のため出家した時頼の後任として、執権に就任している。長時は文永元年(1264)7月に叔父の政村に執権職を譲り、8月に浄光明寺で死去した。長時の墓所は不明であるが、浄光明寺境内の網引き地蔵やぐらがそれであるという意見もある。
浄光明寺の客殿
鎌倉時代を通して浄光明寺は寺勢が非常に盛んだったようで、浄土・華厳・真言・律など四宗兼学の道場があった。鎌倉後期の浄光明寺の寺観を伝えるものに「浄光明寺敷地絵図」(紙本墨画、縦63cm、横95.5cm)がある。これは境内の建物や周囲の景観などが描かれたもので、「円覚寺境内絵図」と同様、鎌倉幕府が滅んだ後、所領安堵のために描かれたものと考えられている。「浄光明寺敷地絵図」は『新編鎌倉志』にその存在が記されていたが、長らく行方がわからなかった。しかし、近年市内の旧家に保存されていることがわかり、平成13年(2001)に寺へ帰り、平成17年(2005)3月、国の重要文化財に指定された。
鎌倉期以降は足利氏に支援を受け、相模国金目郷(平塚市)や同国白根郷(伊勢原市)、上総国山辺郡由井郷(千葉県東金市)などの所領の寄進の他、観応2年(1351)には足利直義から仏舎利の寄進も受けている。また建武2年(1335)の中先代の乱の後、鎌倉に留まった尊氏が翌年に後醍醐天皇の討伐命令が新田義貞に下されたことを聞くと、恭順の意志を示すために籠もったのが浄光明寺であった。鎌倉では覚園寺とならんで尊氏ゆかりの寺院と言える。
室町期は鎌倉公方と関係が深かったようであるが、成氏の古河移座以降は衰退した。かつては玉泉院、慈恩院、華蔵院、東南院、慈光院、地蔵院などの支院が存在していたようだが、現在はない。江戸時代にはほとんどの建物が壊れ、阿弥陀堂のみがあったらしい。
阿弥陀堂
浄光明寺の本尊は阿弥陀如来である。客殿のあるところから一段上がった平場には江戸時代に建てられた阿弥陀堂があるが、現在は修蔵庫に安置されている。中尊阿弥陀如来(像高141.4cm)は寄木造りで、説法相を結ぶ。宝冠は後世のもの。穏やかな顔立ちの宋朝様で、鎌倉期の特徴たる玉眼の他、鎌倉地方特有の土紋表現が見られる。土紋とは粘土で象り作った模様を仏像本体に張り合わせるもので、着物の衣紋などの表現に用いられている。関東大震災後の修理で胎内より正安元年(1299)の墨書銘が発見されており、像仏の年と考えられている。脇侍の観音菩薩、勢至菩薩はともに体をややひねり、顔をまげて、高い宝髷を結っているなど新しい様式が特徴的である。
不動堂
不動明王座像は「八坂不動」と呼ばれる。昔、京都の八坂の塔が傾いた時、浄蔵貴所という僧が祈って、これを直したという伝説があり、その時の本尊だと言う。また慈恩院にあった地蔵菩薩立像(像高74cm)は「矢拾い地蔵」と呼ばれる。足利直義の守り本尊と伝えられ、次のような伝説がある。ある戦の時、直義の矢が尽きてしまって困ったことがあった。その時、どこからか小僧が一人走ってきて、矢を拾い集め、直義に捧げた。不審に思って直義が守り本尊を見ると、矢を一本、錫状とともに持っていたという言い伝えによるものである。寄木造りで南北朝期のものと考えられている。現在は本尊阿弥陀三尊とともに収蔵庫にある。
網引き地蔵と稲荷社
阿弥陀堂の後山にある平場のやぐら内に安置されている石造地蔵菩薩座像は「網引き地蔵」と呼ばれており、地蔵が入っているやぐらは「網引き地蔵やぐら」と呼ばれている。昔、由比ヶ浜の漁師が網にかけて引き上げたことがその由来である。また、浄光明寺に隣接して小さな稲荷の祠がある。ともに「浄光明寺敷地絵図」に見えている。
冷泉為相の墓
網引地蔵よりさらに後方の山上に冷泉為相の墓がある。寺のある谷は山号にもあるとおり、泉ヶ谷(いずみがやつ)である。谷の最奥部付近には泉の井がある。また周辺にはやぐらが多く、多宝寺跡のやぐら群は浄光明寺の裏山に存在する。