江ノ島電鉄の長谷駅から山側に向かっていくと「長谷観音前」の交差点に出る。そこを左に折れて、真っ直ぐ進むと長谷寺の参道に出る。もと浄土宗で材木座光明寺の末。現在は単立寺院。山号は海光山(かいこうざん)。「長谷観音」の通称で知られる。本尊は高さ9.18mの本尊十一面観音像。木像では日本最大級のものである。坂東観音札所の四番。
山門
寺伝によれば開山は徳道で、開基は藤原房前。建立は天平8年(736)と伝えるが、実際には鎌倉後期頃と考えられる。寺の成立に至る詳しい事情はよくわからない。観音像は長谷寺の縁起などでは養老4年(720)、徳道という僧が作ったもので、奈良の長谷寺にあるものと同じ木で二つつくり、その一つを作った奈良の初瀬の長谷寺にまつり、もう一体は、縁のある土地へと海に流された。海に流された観音像は、三浦半島の初瀬というところに流れ着き、その後、鎌倉に運ばれたと伝える。開山開基ほかは奈良の長谷寺の縁起にならったものであろう。
観音堂
南北朝期、室町期は足利氏、戦国時代は小田原北条氏の援助を受けた。江戸時代には観音信仰により庶民の崇敬を集め発展した。なお、現在、このあたりを長谷というのは、この長谷寺ができてからで、それまでは甘縄と呼んでいた。境内には観音像をおさめる観音堂他、阿弥陀堂、大黒堂、経蔵、山門、放生池、鐘楼、かきがら稲荷、水子地蔵堂、弁天窟などがある。観音堂のある広場付近からは長谷の町並みが一望できる。
久米正雄の胸像
なお、境内には久米正雄の胸像がある。久米正雄(明治24年〜昭和27年、1891〜1952)は、小説家・劇作家。現在の長野県上田市に生まれ、第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒。河東碧梧桐に師事し、俳句にも才能を発揮したが、何よりも夏目漱石の娘との恋愛事件を書いた小説『破船』で一躍有名となった。大正12年(1923)、久米は別荘として借りていた長谷の家で関東大震災に遭い長谷寺に避難。その様子は『鎌倉震災日記』に詳しいが、その縁によって終生鎌倉に居住。鎌倉町議などを務めた他、戦後は川端康成や高見順などとともに「鎌倉文庫」を創設するなど鎌倉文士の代表格として鎌倉を愛した。