長谷観音から大仏坂へ向かって歩くと、高徳院がある。浄土宗鎮西義。山号は大異山。正式には高徳院清浄泉寺という。本尊は阿弥陀如来。この阿弥陀如来は「鎌倉大仏」「長谷大仏」「露座の大仏さま」とも呼ばれる鎌倉のシンボルで、境内は海外からの観光客や修学旅行生などで常に賑わう。
長谷の大仏さま
現在の奈良の大仏は天平期のものは台座付近のみで、あとは江戸期の補作であることを考えると高徳院の大仏は、大仏として現存最古の像と言える。国宝。高さ13メートル、重量は121トンにも及ぶ。素材は青銅が主である。当時の最高の技術を使った大事業であったにも関わらず、記録などは少なく鎌倉大仏の歴史はあまり詳しくわかっていない。暦仁元年(1238)3月23日、浄光が勧進となり相模国深沢において「大仏堂建立事始」が行われているから、大仏事業はこの時に始まったものらしい。5月18日に頭部をあげたとあるが、完成したのは6年後の寛元元年(1243)のことであった。しかし、この深沢の大仏については『東関紀行』が記しているが、最初は木造であったという。建長4年8月17日にはこの木造に代わり金銅の大仏の造立を開始した。これが現在の大仏であると考えられる。この大仏造営事業には幕府や北条氏が積極的に関わっていたらしく、「東国の本尊」として奈良の大仏に対抗するものであったのだろう。また、同時に関東における浄土信仰、阿弥陀信仰を考えるうえでも興味深い存在と言えるだろう。昔から露座であったのではなく、当初は大仏殿があったものの、度々大風や津波によって倒壊し、とうとう露座のままになってしまった。
高徳院の山門
明治には、貧しかった高徳院は、僧たちが品川で撮影技術を身に付けて、外国人に大仏をバックに写真を撮って、その写真を売っていたということをやっていたようである。大正12年(1923)の関東大震災では台座が陥没してしまい大仏が前に動いて傾いてしまったので、翌年に修理された。昭和34年〜36年には再度、修理工事が開始され、強化プラスチックなどで首や台座の補強などが行われた。
観月堂と与謝野晶子歌碑
裏には、珍しい朝鮮式の建物の観月堂があり、観音菩薩がまつられている。昭和9年(1934)に実業家で山一証券初代社長の杉野喜精(すぎのきせい)が朝鮮王宮の月宮殿を当院境内に移築し寄進したものである。また、この観音堂の近くには与謝野晶子の歌碑がある。
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな
与謝野晶子と言えば、歌人・与謝野鉄幹の妻で、歌人や女性運動に活躍した人物である。旅順包囲戦に参加したとされる弟へ宛てた「君死にたまふことなかれ」や古典文学の著書でも有名であるが、この大仏の歌の中の「釈迦牟尼」は誤りで、高徳院の大仏は阿弥陀如来である。