五所神社の鳥居前の道から北へ戻ると来迎寺がある。時宗で、開山は音阿上人。中興は覚阿岸樹。本尊は阿弥陀三尊。藤沢の清浄光寺の末寺であった。寺伝では衣笠城で戦死した三浦大介義明を弔った真言宗の寺として建てられ、最初の寺号は能蔵寺だった。いつ頃か能蔵寺は時宗となり、寺号も来迎寺となった。ただ、能蔵寺の名はこのあたりの字として残っていた。三浦義明は相模介義継(さがみのすけよしつぐ)の子で衣笠に本拠をかまえ、三浦氏を名乗った。三浦氏は相模の有力武士団で、頼朝の挙兵に大きく貢献した。治承4年(1180)の石橋山の戦いの時も義明は子の義澄を応援としてつかわしたが、酒匂川の増水のため三浦氏の援軍は間に合わず、頼朝は大庭景親の軍に敗れた。三浦氏は頼朝方の敗戦を知り、衣笠に戻ろうとしたが、小坪の付近で当時、平家方だった畠山重忠と偶発的に戦闘になった。三浦氏は重忠らの軍を一度は破ったものの、重忠は武蔵武士団の応援を待って今度は義明の居城衣笠城を攻めた。八十九歳の惣領義明は、子孫のためにみずからは捨石になり、義澄らを海上から頼朝のもとに逃げさせ、自らは衣笠城にこもって戦死した。後に十七回忌で頼朝は生前に義明が尽くしてくれことに涙し、多大な供養料を送り、また義明は今日まで生きていたものとするとして、八十九歳で戦死した義明に十七年たしたため義明は「百六つ義明公」と呼ばれるようになった。「鶴は千年、亀は万年、三浦大介(みうらのおおすけ)百六つ」の所以である。義明の墓は横須賀市の満昌寺にもある。

本堂