思い出の鎌倉1
鎌倉史跡・寺社データベースの管理人は、生まれてから中学校卒業までの16年間を鎌倉市二階堂で過ごしました。時期はだいたい1990年代から2000年代初頭までです。鎌倉以外で過ごす期間が長くなるにつれ、忘れることの多くなった鎌倉の思い出を箇条書きにしておきたいと思います。
◆『かまくら子ども風土記』
 このサイトに掲載している寺社・史跡の多くの案内文に参考文献として登場する『かまくら子ども風土記』は、鎌倉市教育委員会が発行する鎌倉の郷土学習資料の本で、昭和32年(1957)に初版が出されました。その後、改訂が重ねられており、現在の最新版は13版となります。市役所や鎌倉市内の書店などで入手可能で、我が家には平成3年(1991)の改訂10版のものが今でも大切に所蔵されており、子どもの頃の私はこの本を愛読して、隅々まで読み通しました。
 『子ども風土記』を読むきっかけとなったのは、忘れもしません。雪の下の家が手狭になり、二階堂に引っ越してから数年くらい経った頃でしょうか。住んでいる二階堂のマンションのそば、東御門川という小さな川に架かる大蔵耕地橋のたもとにあった石のお地蔵さんが、「何であの場所にお地蔵さんがあるんだろうね」という母の疑問からはじまり、みんなで『子ども風土記』を読んだのです。その時、短い文章でしたが、二階堂のお地蔵さんのちょっと怖い話が載っており、あの石のお地蔵さんに対するイメージが変わったの同時に、あんな道端のお地蔵さんまで書かれているこの本のすごさに、幼いながら私は感銘を受けたのです。
 もともと私は本を読むのが好きでした。小学生の高学年ともなると、子ども向けに書かれた『三国志』や『南総里見八犬伝』、『義経記』などを読んでいました。しかし、なぜか私が『子ども風土記』を開いたのは、風邪をひいて寝込んだ時でした。小学生の頃、私はたびたび風邪をひきました。私の場合、嘔吐を伴うお腹にくる風邪をひくことが多く、2、3日学校を休むことがままにありました。その時、病床の傍らに『子ども風土記』を置いて読んだのです。その結果、私は小学生の頃から、鎌倉中の寺社や史跡の由来、そして歴史に詳しくなっていきました。
 『子ども風土記』は素晴らしい本でした。私はこの本のおかげで、鎌倉の歴史に親しみました。頼朝による鎌倉開府と関東草創の物語、静御前の悲しい舞、日蓮の情熱的な辻説法、執権北条氏の興亡、畠山重忠や和田義盛、梶原景時たちの武勇と悲劇的な最期・・・それだけでなく、各寺社にまつわる神仏の不思議な話、変わった地名の由来、怖い話に笑い話などなど、本当に面白く、風邪をひくたびに、未読の部分を読破してゆき、上巻から中巻へと物語を読み進めていきました。今思えば、私が歴史に関わる分野に進み、歴史に関わる仕事をするようになった、一番最初のきっかけと言ってもいいかもしれません。
 『子ども風土記』は誰が書いたのでしょうか。最終巻の奥付などを見た結果、どうもこの本は鎌倉の学校の先生や郷土史家たちによって書かれたようです。この本の素晴らしさは、まず内容面です。いくつかの鎌倉関係の本を読んでいると、現在でも『子ども風土記』を参考文献にあげている本はたくさんあり、時代によって変化する鎌倉の町並みなどの面で、この本の記述が一種の史料となっている面があることは確かです。また、『子ども風土記』と言っているだけあって、子ども向けに平易な言葉で、優しく解説を加えているところが秀逸です。ある物事を理解していても、それを人にわかりやすく説明することほど難しいことはありません。しかし、この本の記述のわかりやすさからは、この本を書いた当時の学校の先生や郷土史家たちの知識・教養の高さ、そして郷土に対する思いには本当に感銘を受けます。
 思えばこのサイト自体が『かまくら子ども風土記』を模して、いろいろな点を参考にしながら作り、出発した点を思えば、本当にこの本は私に大きな影響を与えた本と言えるでしょう。

 なお、自家が所蔵している改訂10版の『子ども風土記』には、当時の市立稲村ヶ崎小学校四年生の子どもたちが書いた鎌倉期の律宗僧・忍性の話が本の函に使われている。忍性は稲村ヶ崎小学校に近い極楽寺で活動していた時期があり、文章は郷土学習か何かで書かれたのであろうか。ただ、『チ、チ、チ』という擬音が入っていたりと、謎は尽きないが、この文章は読んでいると、とても不思議な語感がする独特な文章である。その独特な語感が美しく、印象的で忘れられない名文であろう。また、これを本の函のデザインとして使ったセンスも秀逸と言わざるを得ない。

「にんしょうさまは、千二百六十年ごろ大和のくにをあとに、このかまくらにこられ、ごくらく寺のそうとなられました。『チ、チ、チ。あのお寺に、とてもとくの高い、にんしょうというおぼうさまがおられるよ。それ、あそこにみえるのがせやくいん。あれがひでんいん、りょうびょう舎、あの坂の下に馬のびょ…[タイトル]…行ってみよう。』にんしょうさまは、むりょうしんりょう所や、こじや、老人のためのいえをもうけ、こまった人たちを、しんせつにいたわってあげました。さて、ごくらく寺へこられてから七年あまりたちました。チ、チ、チ。このききんでは、村の人たちが口に入れるようなものは何もないよ。』『あれ、にんしょうさまがみんなを門ぜんにあつめて、おかゆをあげているよ。なんてじひぶかい人だろう。』それから五十四間ほどこしは…」(稲村ヶ崎小学校四年 大見英里子 滝口弥生)


◆集合は三角公園
 教師をやっていた時、高校生の校外学習や修学旅行の引率をした経験があります。そうすると、高校生と言っても、たくさん生徒がいれば、中には集合時間を間違える、降りる電車の駅がわからず行き過ぎてしまう、道に迷う、などなど様々なトラブルに直面します。我々教師の立場からすると「やれやれ何やってんだか・・・」と呆れてしまうのですが、子どもの視点から立ってみると、これが一種の不可抗力なのだ、としか言えないような状況で、このようなことになってしまうのです。
 というのも、私には自分自身に覚えがあるのです。昔、小学校の頃、なぜかたびたび横須賀の沖合にある猿島に遠足に行ったことがあるのですが、その際、私は集合場所が鎌倉駅西口のほど近くにある小さな公園(通称、三角公園)であったのに、勘違いをして横須賀駅に直接行ってしまったことがありました。猿島へ行く船が、横須賀の記念艦「三笠」の横から出る、という余計な知識が招いた勘違いで、いざ横須賀駅に行ってみると誰もいない。しばらく経っておかしいと思い、近くの公衆電話から母親に電話をしました。ベソをかくほどではなかったのですが、明らかに動揺した感じで、家に電話をかけると、母親の声がする。事情を説明すると、学校に電話で聞いてあげる、ということで、いったん切って、しばらくしてまたかけると、集合場所が三角公園であったということを呆れた口調で言われて、大ショック。ただ、結局はみんなは横須賀駅に来るので、そこで待っているように、とのことだったので、待っていると、まもなく見慣れた友達たちがやってくる。先頭を歩く担任の先生が「何やってんだよー」と笑いながら来て、何とか無事に合流したものの、不思議なもので小学生というのはそんな些細なことを非常に気にする。私は集合場所を間違えたことに、「へこんだ」とか「落ち込んだ」とかいうレベルじゃないほど、がっくりして、猿島での遊びもそんなに楽しくない、といった状況になってしまいました。
 教師になってから、生徒たちがそういう失敗をすると、たびたびこの「三角公園事件」を思い出します。でも、人はそういう衝撃的な失敗をしてからこそ、「ああ、先生の話はよく聞かなきゃいけないんだな」と身に染みて実感するものだと思うので、あの時、横須賀駅に一人ぽつんと立っていた私を見て大笑いしていた担任の先生のようになりたいな、と思いました。

◆和賀江島に行った日
 私の通っていた小学校は、鎌倉という自然の豊かな環境にあったせいでしょうか、やたらとハイキングなどで自然と親しむ行事がありました。山登りはしょっちゅうあり、天園や十二所方面へのハイキングが恒例行事となっておりました。今は親がうるさいので学校現場も様々な面で慎重にならざるを得ない点がありますが、当時はまだそういう風潮が始まりかけた段階でして、学校のハイキングは落伍者出ても、やり通すというハードさがありました。小学生だから、天園も十二所も結構きつい。足は痛くなり、歩けなくなる子続出でも最後まで歩かせる。今の学校じゃ、あまりやらせないような、それはそれはすさまじいものがありました(最終的にはこの学校は小学5年生の児童を八ヶ岳に上らせるのですから)。
 ハイキングは私にとっても結構辛いものでした。もともと家族でもハイキングに出かけることが多く、山登りは慣れてはいるとは言え、学校の山登りは結構きつい。足は痛くなるし、転んだりもする。それでも列に遅れないように頑張らなければいけない。今思えば、私が唯一自慢できる健脚はこの時に形成されたのかもしれません。しかし、のんびり楽しい家族でのハイキングと違って、とにかく学校のハイキングはきついから嫌いでした。
 楽しいのは、むしろ海へ出かけること。時々、学校では和賀江島へ出かけて、自由に遊べる時間がありました。和賀江島は、材木座海岸の南東にある磯で、中世に作られた築港の跡です。石を積んだ築堤が、潮が引くと海面に現れる。海岸側にある「てんがしま」と呼ばれる大岩を中心に、沖合の築堤跡まで児童たちは、ヤドカリや小魚を追い回したり、海に入って遊んだりと、思い思い遊びます。遊ぶのに夢中になって、だんだんと満潮になると、沖合の築堤跡で遊んでいた子たちは、戻れなくなる。先生が何人も抱えて浜に戻ってくるという、これも今じゃ考えられないような光景もあったりしました。
 和賀江島への遠足は、それ自体が楽しい思い出ではありましたが、この話には続きがあります。こうして和賀江島から直接家に帰ると、母親が海で遊んできたのだから、お風呂に入っちゃいなさいという。それで私はそのままお風呂に入るのです。これがまた忘れられない。なぜなら、当時、子どもの私にとって、一日のルーチンは絶対のもの。すなわちお風呂は夜に入るものなのに、まだ学校から帰って来たばかりの3時そこそこにお風呂に入れる!明るいうちに入るお風呂は、その非日常間たるものやで、格別でした。お風呂から上がると、「いっぱい遊んでお腹が空いたでしょう」と母親がインスタントラーメンを作ってくれる。育ちざかりの小学生には、この味がまたたまらない。そうして、お風呂に入ってすっきりし、ラーメンを食べて満腹になって、少し昼寝をする。疲れているから、グーグー寝る。こんな幸せは、今はもう味わえない。古き良き鎌倉の幸せな思い出の一つとして、いつまでも私の頭の中に残っている出来事でした。

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