和暦 | 西暦 | 月日 | 出来事 | 出典 |
---|---|---|---|---|
(旧石器時代) |
現在の鎌倉市域に人類が住み始める。 (小袋谷切通しの関東ローム層から黒曜石片発見(1954年)) (粟船山遺跡でナイフ形石器発見(1969)) |
『私たちの鎌倉』 | ||
(縄文時代) |
現在の鎌倉市域で縄文土器が使われる。 〔主な縄文時代の遺跡〕 (早期)大船の山居、山崎天神山・富士塚、葛原ガ岡 (前期)腰越の津上ノ山、大船の粟舟山・山居、荏柄天神前 (中期)鎌倉山の住吉、手広の八反目、山崎の富士塚、大船の水道山・粟舟山・山居・関谷、荏柄天神前 (後期)手広の八反目、山崎の富士塚、大船の水道山・関谷東正院、横浜国大附属鎌倉小学校 |
『私たちの鎌倉』 | ||
(弥生時代) |
現在の鎌倉市域で弥生土器が使われる。 〔主な弥生時代の遺跡〕 (中期)鎌倉山の住吉、大船の台山、大船の山居、南御門 (後期)腰越の津上ノ山・津堀内、鎌倉山の住吉・猫池台・峯、手広の八反目、大船の台山・水道山戸ガ崎・粟船山・山居・城廻お花畑・北鎌倉駅裏、浄妙寺前、鶴岡八幡宮境内、葛原ガ岡 |
『私たちの鎌倉』 | ||
(古墳時代) |
現在の鎌倉市域で古墳や横穴が造られる。 (主な古墳時代の遺跡) 腰越の津上ノ山・堀内、大船の山居・台山・水道山 (高塚古墳) 向原古墳群(和田塚(無常堂塚)) (横穴群) 笛田横穴群、雪ノ下大倉山横穴群、寺分狐坂横穴群、御成町千葉ヶ谷横穴群、山崎横穴群、笹目谷横穴群、上町屋横穴群、笹目谷横穴群、上町屋横穴群、長谷光則寺谷横穴、洗馬谷横穴群、稲村ガ崎姥ヶ谷横穴群 |
『私たちの鎌倉』 | ||
13年 |
江島神社が建立されたと伝える。 | |||
3年 |
片瀬の本蓮寺が建立されたと伝える。 | |||
染谷太郎太夫時忠が長谷に甘縄神明社を建てたと伝える。 | ||||
行基が坂の下の虚空蔵堂で虚空蔵菩薩をまつる修法を行ったと伝える。 | ||||
杉本寺が建立されたと伝える。 | ||||
相模の国司が鎌倉郡のうちと思われる尺度郷・荏草郷などを含む相模国の封戸の租を収納して、その計算帳を作成し奈良の都に送る。 | 「相模国天平七年封戸租交易帳」 | |||
長谷寺が建立されたと伝える。 | ||||
手広の青蓮寺、腰越の浄泉寺が建立されたと伝える。 | ||||
安養院の千手観音菩薩像が「燃によって請来される。 | ||||
杉本寺が坂東33観音霊場の一番札所になったと伝える。 | ||||
源頼義が京都の石清水八幡宮を鎌倉由比郷に勧請する(鶴岡八幡宮の起源、元八幡)。 | ||||
源義家、由比郷の八幡宮を修理する。 | ||||
荏柄天神社が建立されたと伝える。 | ||||
伊勢神宮領の大庭御厨が立荘する。 | ||||
源義朝、先祖から伝領した鎌倉・亀ヶ谷の館に住む。 | ||||
保元の乱が起こる。後白河天皇方の平清盛、源義朝らが活躍し、崇徳上皇方は敗れ、源為義は殺され、源為朝は伊豆大島へ流罪となる。 | 『兵範記』『玉葉』他 | |||
平治の乱が起こり、藤原信頼、源義朝らが三条殿を襲撃するが、後に敗れて、義朝は殺され、頼朝は伊豆へ流罪となる。 | 『百錬抄』『一代要記』他 | |||
源頼朝が近江で平家方に捕らえられる。 | 『愚管抄』他 | |||
源頼朝が伊豆に配流となる。 | 『百練抄』『今鏡』他 |
原始〜古代
〔参考文献〕 ・『かまくら子ども風土記(改訂10版)』下巻(鎌倉市教育委員会、1991年) ・奥富敬之『鎌倉史跡事典(コンパクト版)』(新人物往来社、1999年) ・『中学社会科学習 私たちの鎌倉(第20版)』(鎌倉市教育研究所・鎌倉市教育委員会、2001年) |