むかし、むかし。
信濃の国(今の長野県)の伊那郡赤穂(あかほ)の里の光前寺(こうぜんじ)に、1匹の山犬がやってきて5匹の子犬を生みました。
光前寺の和尚さんは、母犬と子犬たちのために食べ物を運んでやりました。
しばらくすると、母犬は4匹の子犬を連れて、山へ帰って生きました。
「ほう、お前はこの寺に残れと言われたんじゃな」
和尚さんは、残された1匹の子犬を見て言いました。
寺に残った子犬は、すばしっこいので「早太郎」と名づけられました。
和尚さんに育てられた早太郎は、立派に育ち、とても賢く、たいそう勇猛な山犬となりました。
ところ変わって、ここは遠江の国見付の村(今の磐田市見付)。
この村には、ある悲しい風習がありました。
それは毎年、秋祭りの日に見付の天神社に娘を人身御供として献上するのです。
そうしなければ、田畑が荒らされてしまうからでした。
毎年、どこからともなく白羽の矢が飛んできて、それが刺さった家は、娘を差し出さなければなりませんでした。
そして、この年も一人の娘が、神様の人身御供となるのでした。
ちょうど、その頃、見付のあたりを通りがかった旅の僧は、その話を聞くと、こんな疑問を抱きました。
「はて、神様がそんな悪いことをするだろうか」
旅の僧は、そう思うと、ひそかに御神前に隠れて、人身御供を要求する神様の正体を見てやろうと思いました。
祭りの日の夜、娘は白い棺に入れられて、村人たちの手で御神前に供えられました。
「かわいそうに・・・しかし、観念しておくれ。そうしなければ村中の田畑が荒らされてしまうのだ」
村人たちは、口々にそう言うと、御神前をあとにしました。
誰もいなくなり、静まり返った境内。
旅の僧は息をころして、木の陰から御神前の様子を窺いました。
すると・・・
なんということでしょう。まもなく大きな恐ろしい怪物が3匹現れ、娘が入った白木の棺に寄ってきました。
(大変だ!皆が神様だと思っていたのは、怪物だったのだ。これでは娘が食べられてしまう!)
旅の僧は思いました。
しかし、相手は大きな怪物。どうすることもできません。
そうしているうちに怪物は、口々に何かを唱え始めました。
「おい、今宵、早太郎はここにおるまいな・・・」
「信州、信濃の早太郎・・・早太郎は恐ろしや・・・」
「早太郎には知られるな・・・ヒヒヒ・・・」
そう言うかと思うと、怪物たちはとうとう娘を食べてしまいました。
娘の悲痛な叫び声が響き、旅の僧は思わず目を閉じました。
(なんという・・・恐ろしいことだ。村人たちは騙されていたのだ・・・しかし、あの怪物どもは信州の早太郎という人が恐ろしいらしい。これは、さっそく信州へ行って、早太郎さんを見つけてこなければ!)
旅の僧は、そう思うと、翌朝、さっそく信州へ向かいました。
信州のあちこちを尋ね廻り、早太郎を探しました。
しかし、広い信州のこと。早太郎は、なかなか見つかりません。
冬が来て、春が来て、夏が来て・・・
時間はどんどん過ぎていきます。
(また、あの忌まわしい秋が・・・見付の村にやってきてしまう・・・)
旅の僧はそう思いながら、とうとう伊那郡まで来たときでした。
ある茶店で、いつものように早太郎のことを聞きました。
「早太郎という人は知らないが、ここから近い赤穂の光前寺には、早太郎という犬がいるよ」
茶店の婆さんはそう言いました。
「い、犬?」
旅の僧は、驚きましたが、わずかな手がかりをようやくつかんだので、急いで光前寺に向かいました。
光前寺にやってきた旅の僧は、和尚さんに早太郎のことを聞きました。
「早太郎は確かにうちにおる犬じゃ」
和尚さんの言葉に、旅の僧はすぐに早太郎に会わせて欲しいと頼みました。
こうして和尚さんにつれてこられた早太郎は、とても勇猛で賢そうな山犬でした。
旅の僧は、すぐに遠州・見付の村での出来事を和尚さんと早太郎に話しました。
不思議と早太郎は、人間の言葉がわかるかのように、じっと旅の僧の言葉に耳を傾けています。
旅の僧の話が終わると、和尚さんはすぐに早太郎に言い聞かせました。
「早太郎・・・しっかり、怪物を退治してくるのだぞ!」
「ワン!」
早太郎は、頼もしく一声吠えると、すぐに旅の僧とともに遠州へ向かいました。
さてさて、ここは遠州・見付村。今年もあの忌まわしい祭りの日がやってきました。
今年も人身御供の娘が用意され、村人たちは悲しみに暮れていました。
「かわいそうに・・・堪忍してくれや。こうしないと田畑が荒らされてしまうのだ」
村人たちは今年も泣く泣く、娘を差し出すことにしました。
そこへ駆けつけた旅の僧と早太郎。
旅の僧は、村人たちに成り行きを説明します。
村人たちは、不安がりましたが、とうとう今年は娘の代わりに早太郎を棺に入れて、お供えすることに同意しました。
お祭りの夜、早太郎の入った白木の棺が御神前へ供えられました。
旅の僧と村人たちは、早太郎にあとを任せて、村に帰りました。
さてさて、何も知らない怪物3匹が、いつもと同じように箱にやってきました。
「ヒヒヒ・・今年も早太郎は来てないな・・・」
「信州、信濃の光前寺。早太郎は恐ろしや・・・」
「早太郎にこのことは知られぬな。それ食うぞ、食うぞ、娘を食うぞ。ヒヒヒ・・・」
そうした時でした。
箱から飛び出した早太郎。
勇ましく怪物に飛び掛かります。
怪物 「ぎゃっ!早太郎じゃ!恐ろしい!」
怪物と早太郎の恐ろしい決闘の声が暗い闇にこだましました。
それを聞きながら、旅の僧と村人たちはガタガタ震えながら、朝を待ちました。
翌朝、太陽が昇ると同時に旅の僧と村人たちは一目散に見付天神へ向かいました。
すると、なんということでしょう。
御神前にはヒヒ(猿の妖怪)が3匹、倒れて死んでいました。
「こいつらが、わしらの娘を・・・」
「今までわしらは、大切な娘っ子を神様ではなく、こいつらに捧げていたわけか・・・」
神様のしわざと信じていた村人たちは、倒れているヒヒを見ながら愕然としました。
だが、これでもう以後は、娘を人身御供にする必要はなくなりました。
早太郎は、立派に怪物を倒したのです。
「早太郎は?早太郎はどこじゃ!」
旅の僧はあたりを見渡し、早太郎の身を案じました。
村人たちもみんなで早太郎を探しはじめました。
しかし、早太郎はどこにもいません。
その頃、早太郎は懸命に歩いていました。
朝日に照らされたその身体は、怪物との戦いに傷つき、ボロボロでした。
それでも早太郎は、懸命に歩きました。
生まれ育った信濃の国へ・・・
そして、ようやく光前寺にたどり着くと、和尚さんのもとにやってきました。
「早太郎!?どうじゃった?怪物は倒したのか?」
和尚さんは早太郎は抱きかかえると、そう聞きました。
早太郎は「ワン」と吠えて、戦果を報告しました。
「そうか・・・早太郎、よくやった・・・よくやった・・・」
和尚さんに抱きかかえられ、甘えるようにじゃれついた早太郎は、まもなく息を引き取りました。
和尚さんは、早太郎のなきがらを本堂横の境内に手厚く葬りました。
早太郎は、こうして永い眠りにつきました。
あとから早太郎を追いかけてきた旅の僧は、早太郎の死を知ると、その功績をたたえ、早太郎の供養のために大般若経を写経し、光前寺に奉納しました。
このお経はいまでも光前寺に残されています。
遠州見付の村を救った早太郎は、その後も見付の人びとの心に残り、そのため光前寺のある長野県駒ケ根市と、見付の村がある静岡県磐田市は友好都市となっています。
めでたし、めでたし。